ダン!っと不用意に大きな音を立てたまな板に俺は舌打ちすると、ギュウウと両手に力を篭め、次に詰めていた息をハアッと大きく吐き出した。
昨夜、俺は、ゾロのアニキと寝てしまった。
例えば酔った勢いだとか、なんとなく場の雰囲気に流されてしまったとか、そんなあやふやな状況だったらどれほど良かっただろうと、今だ鮮明な記憶に俺は深く息を吐き出す。
そう、その時、セックスしたきっかけを覚えていないなんて俺の記憶はあやふやなもんじゃなく、俺はあの時、間違いなくしっかりとゾロのアニキだと認識した上でその誘いに乗ったのだ。
一夜の過ち。たしかにその通りだったのかもしれないと夢から覚めた俺は息苦しいほどの罪悪感に苛立ちを抑えることができないでいる。
俺は、たった一夜だけであったが、男とのその行為に溺れた。
クルーの肉親であり、俺がひそかに想い続けていた相手とそっくりな男を腕にして、思うが侭に貪った。
その逞しくも美しい筋肉を指先で、手のひらで感じ取り、汗の一滴、涙の一粒さえ、自分のものだと至高の喜びをもって口にした。手にしっとりと馴染む、弾力のある肌に齧り付けば、その唇からは湿った甘い声が上がり、しなやかに背が反り返る。体温が上がりほのかに色付いた肌に色付く小さな突起。そして与える快楽に従順に感じて濡れた男の証。肌より色が濃いそれを躊躇なく口に入れた自分にも驚いたのだが、そそり立つ証から流れてくる雄の味にたまらなく興奮した。
ゾロのアニキは男は初めてではないと、俺の想い人と同じ身体に興味はないかと、そう、俺を誘った。
想い人と同じ造りの顔が快楽に歪められ喘ぎ、その唇が俺の名前を呼ぶ様に、俺の中の躊躇いも、かすかに残っていた理性も消えうせたのは感じていた。
そこからの記憶は思い出せば思い出すだけ、後悔の嵐で、自分の中にあったセックスという認識が根底から覆ってしまうような一夜だった。
行為の最中、意味をなさない喘ぎと、その頬を流れる涙は快楽の嬌声だけではなかったような気がする。
相手が気を失っても、その中を穿っていた己に狂気じみた恐怖を感じる。すっかり意識のない体を思うが侭に蹂躙して、俺が満足するまで己の欲望を注ぎ続けたのだ。
たとえそれが愛のない、偽物の行為だったとしても、それでも俺は、あのセックスを否定できない。一夜明けた今でもゾロの姿をした他人の肌の熱さを思い出すだけで、体のなかをドロリとした快楽が満たしていく。それと同時に体を満たした飢えた感情に暗い笑みが浮かんでくるのだ。
俺自身を喜んで迎え入れ、熱く絡みつき同じだけ快楽を貪った熱い体を目にした時、すぐにでも相手の腕を掴んで暗い倉庫へと連れ込みそうになった。
「クソ!」
無意識にキッチンから外へと出ようとしていた自分に俺は小さく悪態をつく。
昨夜、弟のゾロが不寝番を勤めていたように、今夜はゾロのアニキが不寝番を勤めているはずだ。
すでにゾロのアニキには夜食は届けてあり、俺は明日の朝の仕込みを済ませて男部屋に降りて眠れば今日は終わるはずなのだ。なのに、俺は、何故かこうしてダラダラとキッチンに居座ってしまっている。
苛立ちから口に咥えていた煙草のフィルターを噛み潰し、俺は荒い動作でカウンターテーブルまで戻る。カウンター越しに手を伸ばし、安っぽい銀色の灰皿を引き寄せ、俺はそのまま凭れかかるようにカウンターに肘を乗せた。フィルターを潰したまま火をつけた煙草からトンと銀色に灰を落とす。
『・・・あ、アアっ・・・』
気持ちを落ち着かせようとすればするだけ昨夜のアレコレが甦り、吐く息は熱を帯びていく。
『あ、・・・サンジ・・』
一瞬記憶と共に耳の中で木霊した声に体温まで上昇し、俺は唇を歪めると目尻を押さえて深く煙を吐き出した。
「クソコック・・・」
ギィと小さな軋みと外気と共に聞こえてきた声に俺は反射的に体を起こした。
扉を開けてキッチンの中へと踏み込んだ人物は今俺が頭の中に思い浮かべていた人物ではなかったものの、今、この瞬間、絶対に会いたくない人物その人だった。
「・・・・・ゾロ」
風の流れへと振り返り、口の中の唾を飲み込むように呟いた俺の声は無様に掠れて消えていく。何故このタイミングで現れたと心の中で焦りと歓喜とがない交ぜに俺の感情を揺さぶっていく。
「・・・・・コック」
ゆっくりと俺を見つめたまま近付くゾロに俺はドクドクと激しくなる鼓動と息苦しさに眉を寄せるが視線は少しもぶれない。舐めるように全身を見つめ、近寄るゾロのシャツから覗く白い包帯と、唇の横にある白いテープに俺は昼間の激しい戦いを思い出した。
「な、なんだ? 酒か?」
海の上に急遽設置された簡易舞台で、ゾロとそしてゾロのアニキとが刀を交えたのだ。
もちろんそれはただの試合で、殺し合いではないのだが、それでも本気で刀を合わせる二人の姿にクルー誰もが魅入られていたのは事実だ。
「・・・・ちがう・・・」
とうとう、俺の目の前まで来て足を止めたゾロに俺はカウンターから体を離し、体勢を直す。
「酒、・・・じゃなくて飯か?」
酒じゃなければ飯だろうと、とうに寝付いていたはずの相手の用事を口にして俺はキッチンの方へと向かおうと歩きだした。
「待て、コック」
その腕を呼びかけと共に掴まれて俺の胸はドクリと大きく一つ脈打った。
「・・・・・・・・聞きたいことがある」
静かな声と真摯な翡翠の輝きに俺はコクリと小さく唾を飲み込んだ。
「へえ? マリモが俺に? いったい何を聞きてぇんだ?」
ドックドックと激しく胸を打つ鼓動と、急激に渇きを覚える唇を歪めて、俺はゆっくりとした動作でゾロへと向き直った。
「アニキの事だ」
ジッと逸らされることのない視線と、感情の伺えない言葉に俺はかすかに視線を外し、口に咥えていた煙草を灰皿へと押し付けた。
「アニキ? ああ、テメェの?」
「ああ」
ゴシゴシと煙草の黒で銀色を塗り替えつつ、俺は平静を装って顔を上げる。
「テメェのアニキの事で俺に聞きてぇ事って何だ?」
どこか軽い調子で言えた言葉に内心ホッとしながら俺はゾロの顔を見つめなおした。
「・・・・昨夜」
「昨夜?」
「昨日の夜のテメェとアニキの事だ」
その言葉に怒りが含まれているのならば俺もゾロの質問の意図が分かっただろう。だが、その声に一切の感情は見えず、ただの事実確認を淡々と行っているだけかのようだった。
「ああ、夜? テメェを誘わずに二人だけで飲んでたことか?」
実際きっかけは酒を求めてゾロのアニキがキッチンへと顔を出した事だったのだ。それなりにいい酒を出して、それに合うつまみも出して、なんとなく二人っきりで酒盛りをしていた。
「ちがう・・・」
小さく左右に振られた緑の頭に俺は乾いた笑みを顔に貼り付ける。
「俺が見たのはテメェとアニキが抱き合っている所だ」
ドクンっと大きく心臓が跳ね、体温が一気に下がっていく。冷たい汗が流れる身体とゾロの手が掴んでいる腕の温度差に俺は唾を飲み込む。
やはりあの時、一瞬だったがキッチンの扉が開いたように感じたのは気のせいではなかったのだと、どこか遠い所で納得している自分がいた。
「お前はアニキが好きなのか?」
抑揚のないゾロの問い掛けに俺はハハハ・・・と乾いた笑いを零していた。
「・・・・別に」
「別にって、テメェ、クソコック!」
唇を割って零れた言葉にゾロの眉間が寄り、今度ははっきりとした怒りを宿した瞳が俺を見つめてくる。キラキラと光る翡翠に見惚れながら俺は記憶の中、熱を含んだ翡翠を思い出していた。
「別にテメェのアニキを好きなわけじゃねえ」
「だったらなんでテメェはアニキと寝てんだ」
「・・・・・・・誘われたから」
小さな声で答えると同時に飛んできたゾロの拳を頬に受け、ガタガタと大きな音を立てて椅子を巻き込んで床に倒れこむ。
「誘われたからって。テメェは男も女も見境なしか!!」
ゾロの怒声に視線を落とし、かすかに震える拳に目を閉じる。
確かに俺の行為は褒められたものでないと分かっていたのだ。だが、分かっていながらも俺は誘惑に逆らえなかった。
「仕方ねぇだろ・・・・、俺は・・・・」
ズルズルとみっともなく這うようにしてゾロの足元へと近付き、俺はきつく握られ震える拳にそっと己の手を重ねた。
「俺は・・・・」
顔をゆっくりと起こし、俺は怒りを宿し見下ろすゾロにかすかに笑いかけた。
「俺はテメェに、クソ剣士に惚れてんだから」
予想以上に甘くなった自分の声に驚きながら告げた言葉にゾロの眉が下がる。困ったような戸惑ったようなその表情に俺はゾロの腕を引くと強引に自分の所まで引き寄せた。
「おい、コック!」
「好きだ。ゾロ」
慌てたゾロの声を肩に聞きながら俺はその体を抱き締め、目の前で揺れたピアス越しに隠してきた想いを口にする。
「ずっと惚れてたんだよ。クソ剣士」
俺の告白に身体を固く強張らせ、動きを止めてしまったゾロに苦笑を浮かべ、俺はゆっくりと引き結ばれた唇へと顔を寄せていく。
「俺はアニキじゃねえ!!」
ガツンとした衝撃を頬に受け、ついで熱かった身体が腕をすり抜けていく。
バタンと大きくキッチンに響いた音に俺はハハっと小さく笑い声を漏らした。
「・・・イッテェ・・・」
ポタリと、殴られた衝撃で切れた血が床に染みを作っていく様を眺めながら俺は、一瞬だけ触れたゾロの唇を想ってひとしずく涙を零したのだった。
SIDE : ゾロ(兄)へつづく